日々の歩み

……。主はすぐ近くにおられます。ピリピ4.5

苦しみと答え

 苦しみがあります。歩みの何もかもがうまくいかなくなってしまうのです。失敗に失敗が重なり、苦悩に苦悩が重なっていきます。忙しさと疲労、時間に追われる日々です。意気消沈し、やる気は失せ、仕上げなければならない事があるのにもかかわらず、手付かずの状態です。たまにもつ祈りの中で心が一新されることもありますが、それにもまして日々の苦しみが激しく覆いかぶさって来るのです。

 そういう中でも、神との関係が無くなることは、決してありません。イエスの十字架の死と復活のゆえに、神との交わりこそ、まさに永遠の命であり、それを通して神の慰めが心身を潤すように満たしていきます。この歩みの中で聖書をひもとき、神の言葉を受けることは、大きな力です。いま私は、数年ぶりの哀歌を神の慰めをもって読み始めています。

 哀歌1章のはじめから、神からの呼びかけは慰めに満ちています。「お前は、こんなひどい状態にあるのだ」との神の呼びかけは、信実に受けとめる者にとっては慰めです。その慰めは、それにとどまらず彼らがひどい目にあっている原因が何であるのかも示してくださいます。神が答えるということは、神が一度とらえた者に対して決して見捨てない方であるということです。

 本当の苦しみとは何でしょうか?それは、会った苦しみの意味が分からないということです。答えがないということです。なぜなのかがわからない、それは神から答えをいただいていないということです。しかし、神から言葉を受ければ救われるのです。信仰をもって待望した心が、神の言葉を聞きさえすれば、命の水が心に流れてくるのです。

  

神に従う

神に従うこと。それは普段の生活において、与えられた命を生きること。そこに“神に従う”というもの感じております。私は、宗教活動の中において神への従順を感じたことがなく、むしろ宗教的群れから離れた時の普段の生活の場においてそれを感じるのです。そしてそれは、御言葉に対してじかに従うことであり、それ以外の、人の解釈を通した間接的なものをやらされるようなことではありません。私はいままで普段の生活の場において命と平安を感じてきました。「神に従う」という以上、神が私に問うていることなのです。だから、人からどうこう言われる筋合いはありません。宗教的群れと関わりなくとも、本人が御言葉に対していかに歩んで命と平安を得ているのかが重要であり、確かにそう歩む人には、神からの呼びかけに答えている何かが在るのです。教界が提供する特別の場をもたなくても、否、むしろ教界外の普段の場の中に、その都度、その瞬間、神からの呼びかけに答えていくことに、神への従順があるのです。